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まだ歴史の浅いCGの中で、孤軍奮闘している笹原和也。今回は先週まで3回に渡ってお届けしてきたインタビューを、コンピュータとクリエイティブという視点から振り返ってみる。
E・Eスミス原作のSFオペラ『レンズマン』が公開されたのが1984年。フルアニメーションCGを強く意識したのは、この時だったように思う。今から16年前だ。セルアニメーションの中の一部に、CGアニメーションが挿入されていただけであったけれど、何というか、表現しようのない、どう凄いのかすらもわからないような印象だったことを覚えている。
とにかく「何か、見たことのないものを見た」という感じだった。画面
が流麗であることよりも、なんだか漠とした不安、みたいなものを感じたのだ。それをテクノロジーへの恐怖と呼ぶのかどうかはわからない。テクノロジーの全体主義を描いたジョージ・オーウェルの小説『1984』と同年というのも、なんだか不思議な巡り合わせである。
翌1985年、AppleのMacintosh、AdobeのlaserWriter、そしてAldusのPageMakerと、DTP(デスクトップパブリッシング)の基本が出揃う。この年を境にしてコンピュータによるクリエイティブの歴史が本格的に始まったというわけだ。もちろん、それ以前にもコンピュータによる作品というのは多数存在していたのだけれど、1985年から始まったのは人間と機械が1対1で対峙するような、そんな関係だった。平たく言えば、パーソナル・コンピュータと言うことだ。
DTPが普及するにつれて、「個人でも出版社や印刷会社クオリティの作品を作ることができる」という強力なモチベーションが生まれて、こと雑誌の分野に関してはデザイナーと編集者の境界が極めて曖昧になっていく。結果
として「一人で全てにディレクションを行う」ことの快感を覚えた人間が急増していったように思う。それはつまり、「自分の雑誌を一人で作る」という快感だ。
そして、さらに時間は流れ、テクノロジーは発達する。今から約5年くらい前だろうか。LightWaveというソフトが、映像の世界にも同じような転回をもたらす。雑誌やデザインよりもさらに敷居の高かった映像〜CGを、個人に引きずり寄せたそのソフトを、積極的に日本に紹介したのが笹原和也だ。
日本におけるアニメの位置が特別であることは間違いない。手塚治虫から連綿と続くその世界は、僕たちの原体験でもある。他の諸外国と比べて、日本における漫画やアニメの地位
は高く、今日では映画と比肩しうる表現ジャンルとなっている。そんな土壌が、LightWaveと結びついて、やがて「独りで映画を作りたい」という欲求が生まれる。ガンダムを観て育ち、LightWaveを手にした笹原和也が、長編アニメを指向するのは、必然の流れだったのかもしれない。
CGでは、カメラはもとより、ライティングも登場人物も演出もシナリオも音楽も、全て個人がコントロール可能な世界である。もちろん、作品規模によって大人数で制作されるケースも多いが、手間と時間さえかければ個人で成立してしまう。
映像分野の中でも、映画やアニメーション、ビデオクリップ、CMなど様々なジャンルがあるわけだが、ことCGでは顕著に「俺」が反映される。笹原和也は、基本的に「俺」の人だ。技術偏重のCG業界の悪しき風潮の中で、笹原和也ほどその個人を注目されている人は少ない。
笹原和也よりも、優れた技術を有する人間は市井にも数多く存在するだろう。しかし、CGにおける技術の優劣は、単にノウハウの蓄積でしかない。リアルを実現する方法論は、すぐにソフトウェアに実装されてしまう。むしろ必要なのは、作品を作るための意志であり、実行力であり、「俺」だ。
笹原和也の「俺」は、今、正直に言って悩んでいるのかもしれない。しかし、モーションキャプチャースタジオの設立を始めとして環境が整いつつある中で、何か方向を見出したようにも感じられる。目標である長編CGアニメの制作にも、だいぶ近付きつつあるという。
テクノロジーへの恐怖はすでに過去のものとなった。求められているのは「俺」だ。2001年、笹原和也がどのように行動を起こしていくのか。そして、一体どのような「俺作品」を作り上げるのか。とても楽しみに思う。
(おわり)
来年一発目のインタビューは、持ち歌1000曲以上という凄い歌い手さん。熱いインタビューです。アニキです。お楽しみに。
笹原和也●アマチュア時にソニー・ミュージック・エンターテイメント主催のデジタルエンターテイメントプログラム(DEP95)にて、最優秀賞であるBEST
AWARD賞を受賞。その後、97年10月に有限会社笹原組を設立。最近の主な作品は「BIOHAZARDCODE:Veronica」(カプコン)劇中CGなど。
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